1743年、フランクフルトのユダヤ人居住区、ゲットーで一人の男子が生を享けた。名をマイヤー・アムシェルという。
彼の家は赤い(ロート)標識(シルト)を掲げて両替商を営んでいたので、のちにロートシルトを家の姓とした。英語読
みでロスチャイルド。世界一の富豪の歴史がここに始まる。

 18世紀末、国民皆兵の徴兵制度を布いたフランスはナポレオンの指揮のもと全ヨーロッパを席捲、対応を迫られた
各国は軍備の整備と拡大を余儀なくされた。土地を基盤にした旧経済は崩壊、国債や公債による資金調達が必須に
なった。証券とクレジットに基づく資本経済への転換。ヘッセン大公国の宮廷支配人として堅実に商売をしていたロス
チャイルドは各国に高利の資金を貸し付け、一気に資産を拡大する。

 マイヤー・アムシェルとのちに「グランドマザー」と呼ばれ一族中の尊敬を集めたグトレには5男5女があった。父と母
は慎重に子らの性格を見極め、長男をフランクフルトに留め、二男をハプスブルクのウイーンへ、三男ネイサンをロンド
ンへ、四男をミラノへ、五男ジェームスをパリに配した。五人は馬車や伝書鳩を駆使して密接に連絡を取り合い、それぞ
れに金融業を中心とする家業を振興した。1815年に約13万ポンドだった一族の資産は、1825年に4百万ポンド(現
在の2千億円ほどか)に急成長している。

 同家のこの後の活躍は本書で確認して戴くとして、ここでは叙述の方法に言及したい。あの有名な政変も、この凄惨
な戦争も、裏で暗躍する黒幕はロスチャイルド。そんな「衝撃の」推論を、私たちはしばしば耳にする。ロックフェラーや
ロスチャイルドなどのユダヤ閥が世界を操っている、いやロスチャイルドこそは世界の真の王である、と極言する本もある。
本書はこうした趨勢とは明瞭に一線を画する。ロスチャイルド別邸であったフランクフルトのユダヤ博物館から第一のイン
スピレーションを得て、軽妙に、終始淡々と、一族のありようを復元していく。

 センセーショナルな推断には慎重であるべきだ、と私は思う。理由は日本とユダヤの大きな隔たりである。わが国は
極東の島国で、占領された経験はほとんどない。企業こそ国境を越えて活動するけれど、個人生活は国内の枠に収斂
される。宗教は風土と同様に穏やかでシンクレティック(ごたまぜ)である。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が示す一神
教の激烈な相剋は正直な処よく分からない。これに対しユダヤの民は二千年も国土をもたなかった。世界各所で迫害
を受けながら堅固な信仰を抱き懸命に生を紡いだ。彼らは私たちの対極、安易な類推を許さぬ存在といって過言でない。
それゆえに、抑えた記述こそが先ずは穏当だろう。

 ノブレス・オブリージュ(「高貴な義務」)。世界的にみれば貧富の差が小さく、金持ち層が貧弱である日本人には馴染
みのない概念である。だが欧米では、優勢な財産・権力・社会的地位の保持には深甚な自己犠牲の責務が伴う、と広
く認識される。ロスチャイルドはとりわけ真摯に、文化や慈善に取り組んだ。著者は陰謀の王としてではなく、教養に満ち
洗練された一族として、静かな共感を以てロスチャイルドを描写する。エレガントな一冊です。

文藝春秋 2009年3月号